病院の沿革

財団法人 同愛記念病院財団の設立

大正12年9月1日、関東大震災に際し、当時のウッズ駐日米国大使は、直ちにその惨禍の詳細を本国政府に報告するとともに迅速な救援を上申しました。クーリッジ大統領は、直ちに米国赤十字社を日本救援事務所本部に指定し、「あらゆる力を傾注して、迅速に援助の途を講ずべき」旨の教書を発しました。

これにもとづき、米国赤十字社が中心となって救援金品の募集に着手し、あらゆる機会を利用して米国全国民に日本救援を呼びかけ、大衆もまたこれに呼応して熱烈な同情をわき起こすようになりました。その結果、大正12年9月から大正14年2月に受領したものに至るまで、義捐金の総額は1960万ドル(当時邦貨換算6860万円)の多額に上りました。

日本政府は、このような米国民の深厚な同情と友愛とを永久に記念し、被災民を始め、一般貧困者の救援のため、駐日米国大使の同意を得て義捐金の一部約700万円(当時)を割いて、震災中心地域に救療事業を行う病院を設立することに決し、その結果、大正13年4月28日内務大臣の許可を得て、財団法人 同愛記念病院財団(旧財団)が設立されました。

旧財団及び病院の経営の基本方針は次のとおりでした。

  1. 病院は一般病院とすること。
  2. 経営方針は無料または経費を原則とすること。
  3. 総資金のうち約300万円を創設費とし、残額を経営資金とすること。
  4. 病院の位置はなるべく本所深川方面とすること。
  5. 名誉会長に駐日米国大使を推薦すること。

病院の位置は、基本方針にもとづき震災の時、死者3万人以上を出し、最も悲惨を極めた陸軍被服廠に近接する現在地(安田邸跡)に決定されました。

やがて、同愛記念病院(The Fraternity Memorial Hospital)建設に着手し、その完成をまって昭和4年6月15日診療を開始しました。

日本医療団への合併及び病院施設の接収

昭和17年6月25日、日本医療団が結核対策及び無医村対策を柱に、医療の普及を図る目的で創設されました。旧財団は日本医療団をして戦時国民医療遂行の基幹たらしめることとする日本政府の政策に即応して、昭和20年3月31日厚生大臣の許可を得て解散、4月1日日本医療団に合併し、日本医療団中央病院として戦災者の医療救護にあたりました。

間もなく敗戦となり昭和20年10月20日、病院の建物及び動産の一切が占領軍に接収されましたので、やむなく本院における医療は休止することとなりましたが、辛うじて両国橋近くの仮設小病院(旧佐々木病院)に移って、細々ながら博愛精神の灯を消すことなく、救援事業に最善の努力を尽くしました。

この状態は昭和30年10月17日の接収解除の日まで続きました。

社会福祉法人 同愛記念病院財団の設立

日本医療団は、終戦後法律により解散することとなりましたが、旧財団に属していた病院の土地・建物・有価証券・預金等の資産は、終始これを別箇のものとして保有していましたので、旧財団設立の趣旨達成を図る方途として昭和27年10月、厚生大臣の許可を得て旧財団と同種の目的をもつ公益法人を設立し、同法人の資産として旧財団に関係する資産を一括寄附することとされました。その結果、接収解除も近い見通しとなった昭和30年2月24日、厚生大臣の許可を得て社会福祉法人同愛記念病院財団が設立されました。

そして、昭和30年10月17日の接収解除により直ちに建物及び医療器具の整備改修、職員の充実に着手し、昭和31年4月16日に診療再開の運びとなりました。

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